電気仕掛けの胎蔵界曼荼羅を描いてみるぶろぐ

ひたすら自分の描いた胎蔵界曼荼羅の神仏を上げていくブログです。

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最外院 ダーキニー(荼枳尼)図像 修正版

Dakini remake

六年前に描いた「荼枳尼衆」の図像を「イラストレーター」でトレースし直し、一部修正して塗り直してみました。塗りは「Gimp2.6」です。

やっぱり天部の尊格は描いてて楽しいですね。

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  1. 2017/08/21(月) 00:18:50|
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大日如来 Skt:महावैरोचन (Mahā-vairocana)

vairocana1.jpg

大日如来(Mahā-vairocana)。

「大日如来」は密号を「遍照金剛」といい、胎蔵界曼荼羅ではマンダラの中尊として、「中台八葉院」の八葉蓮華の中央(雌蕊部分)に位置する。

また大日如来は「五徳」でいえば「方便」、「五智」でいえば「法界体性智」(法界清浄智)にあたる。図像では結跏趺坐にして両手は法界定印を結び、頭頂に五仏を載せ、装飾を施した菩薩形で表される。

尊名の「ヴァイローチャナ」(Vairocana)は「太陽」(solar)を意味する。また、「ヴァイローチャナ」(Vairocana)の「ヴァイ」(vai-)は後に続く語を強調する言葉で、敢えて日本語にするならば「確かに(確かな)」、「全き」とかいうほどのニュアンスが近いと思われる。(今風にいえば、「すごい」とか「超」みたいな感じだろうか)
一方、「ローチャナ」(rocana)は「光」(light)、「鮮明さ」(brightness)、あるいは「光体」(radiant)、「蒼空」(firmament)、「光球体」(luminous sphere)などを指す。

また、『モニエル梵英辞典』によれば「ローチャナ」(rocana)はすこぶる多義的で、「ローチャナ」(rocana)の意味するところに関して言えば、例えば他にも

「黄色の顔料」
「食欲増進」
「胃腸薬」

あるいは

「シトロン」
「ザクロの木」(pomegranate tree)

栴檀科の樹木である"Rohituka"(Amoora rohituka)
ミズキ科の樹木である"Ankol"(Alangium hexapetalum)

など、いくつかの植物とも関連し、その意味するところは文脈により異なるようである。


ここから話しが逸脱するが、個人的には上で挙げた"Rohituka"と"Ankol"の二種に興味を引かれたのでとりあげておきたい。

"Rohituka"と"Ankol"は、いわゆる「アーユル・ヴェーダ」では医療用植物として取り扱われ、伝統的には"Rohituka"は"悪性腫瘍"の治療に、"Ankol"は"痔"(あるいは出血?)などの治療に対して用いられているようだ。
そのうち"Rohituka"は現在ではその幹皮から抽出したテルペノイド、「アモオラニン」(AMR)に"抗癌作用"(細胞のアポトーシスを引き起こす作用)があることで知られている。また、"Ankol"もその抽出物に"抗菌作用"があることが分かっており、いくつかの皮膚真菌症に改善の効果が認められるという。


さて、ここにきて「アーユル・ヴェーダ」を軸に沿えて「仏教」を眺めてみるのも面白いのではないかと思った。仏教でも多様な植物のイメージを取り扱うからである。

また、「アーユル・ヴェーダ」の医学、特に身体論や薬学などの"フィジカルな側面"は、経験主義的に根拠のあるものとして、一般的に(少なくとも「知識階級層」の間では)"信頼され得るもの"として認知されていたと思われることから、仏教サイドがそういった事に関して"無自覚"に植物のイメージを扱っていたとは到底考えられない。

例えば仏教の三大霊樹とされる

・無憂樹ムユウジュ(Saraca asoca)
・菩提樹(Ficus religiosa)
・沙羅樹(Shorea robusta)

などはインドでは古来から一般的に馴染みのある樹木であると同時に、「アーユル・ヴェーダ」では伝統的に薬用として用いられる。

胎蔵界曼荼羅の緒尊に関して言えば、例えば「除一切憂冥」「悲愍慧」の二尊は「持物」として「無憂樹」の枝を持ち、「ヤショーダラ」の持つ「プリヤング」(Aglaia elaeagnoidea)もまた、伝統的に薬理効果がある植物として知られる。※2

とは言いつつも、「アーユル・ヴェーダ」では(現在の日本においては)一般的には単なる「果物」、「食用スパイス」、「観葉植物」としてしか見做されないものから、南アジア特有のマイナー種まで、多種多様な植物を(薬用として)扱っているようであるから、植物の名称をあげれば必然的に被る場合があることは考慮しなければならないかもしれない。

しかしながら、ある特定の文脈において、あるいは特定の知識を有するグループの間においては、その植物の具体的印象が及ぼすなんらかの"心理的影響"はあったはずで、そこになんらかの意図があったのかどうかはともかく、仏教側が植物のイメージを扱う際、その影響について意識的であった可能性は十分あるように思われる。




※ ザクロは英語でいうと「ポメグラネイト」(pomegranate)になるが、語の由来はラテン語の"pōmum"(果物)と"grānātum"(多くの粒〔種子〕)から来ていて、通常「種子の多い林檎」という意味に解される。この語から受ける印象は、密教における「大日如来」の性格によく通ずるものがある。

※2 ここでは個々の植物についての具体的な効能には触れないが、薬理的効果については、当然ながら科学的手法で確認できる事柄であるから、現在ではこれら個々の植物についての薬理学的研究、成分分析などがすでに為されているようだ。これらの情報のいくつかは、アメリカ合衆国の国立生物工学情報センター(National Center for Biotechnology Information)のウェブサイトで参照できる。




「ヴァイローチャナ」と聞いてまず思い浮かべるのは、顕教でいえば『華厳経』、密教でいえば『大日経』、『金剛頂経』といったところだろうか。またその両方において、「ヴァイローチャナ」は教主として説かれ、また"法身"として説かれる。
しかし、『華厳経』の「毘盧舎那如来」(ヴァイローチャナ)は、密教経典に見られる「毘盧遮那如来」とは異なり、自ら直接"言葉"で法を説く(説法する)ことはしない。『華厳経』では"言葉"を用いて法を説くのは、あくまで会座に居合わせた"菩薩"たちが代わりに説くのであって、如来ではない。
また、『華厳経』・如来名号品では、「ヴァイローチャナ」という名号は「釈迦牟尼仏」の呼称のひとつとして数えられ、ここでは未だ独立した"一尊格"としては扱われてはいない。

ちなみに「如来名号品」で説かれる「釈迦牟尼仏」の呼称とは、以下の十種である。

一切義成就(Sarvartha-siddhi)
円満月えんまんがつ
獅子吼ししく(Simhanāda)
釈迦牟尼(Śākyamuni)
第七仙
毘盧舎那(Vairocana)
瞿曇氏くどんし(Gotama)
大沙門
最勝
大導師


以上のうち、「一切義成就」(サルヴァールタ・シッディ)は『金剛頂経』では「ヴァイローチャナ」(Vairocana)と問答する「菩薩」として登場し、『華厳経』とは明確な差異が見受けられる。


ところで───

釈尊入滅後、残された後代の信奉者にとっては、「どのようにして仏陀に相まみえるのか」というのは切実なる問題であった。伝承上の仏陀はあまりにも偉大過ぎたのだ。
そのような理由からか、仏教では視覚的にも教義的にも、様々な釈尊像の展開を辿る事となる。(『華厳経』の毘盧舎那仏も釈尊像の展開上に位置する如来といえる)


大雑把に言って、釈尊像の展開には以下の二つの流れが関与しているように思われる。

1. 仏舎利を納めたストゥーパを建設し、ストゥーパそれ自体を"釈尊"と同等として看做すという流れ
2. 「教えそのもの」、「法」(Dharma)それ自体を"釈尊"と同等として看做すという流れ

という二つの流れである。

端的に言えば、前者は建築の造形技術やレリーフ、仏教彫刻など、視覚的イメージの展開と関わりがあり、後者は教義的な展開に関わりがある。

また1.の場合、その土地を霊地化するという意味において、またはこちら側(世俗)に物理的に勧請するという意味において、ある種の"呪術的操作"としても解釈できる。

ストゥーパは元々釈尊の"遺骨"を祀る塔であり、仏陀を"直接"供養し、功徳を積むことができる対象であったが、各地にストゥーパが建設され、その数が増えるにつれ、もはや釈尊の"遺骨"を祀る塔ではなくなった。そこで仏陀を"直接"供養するためには、「勧請」という呪術的操作が必要になるのは必然であると言える。

このような流れは、人の営みとしては、極自然な流れであるように思われる。あくまで推測だが、このような見地から「仏塔信仰」の拡大と「多仏思想」との展開との間になんらかの関係を見て取ることもできるだろう。


2.はさらに二つに分けて考えることができる。

ひとつは、口伝で伝えられる「偈頌」、あるいは「経」それ自体を"釈尊"と同等とする見方、言い換えれば、ある特定の音の構成や文字の配列を神聖視する見方である。

もうひとつは、そのような言語や行為を媒体として伝達される「法」それ自体を"釈尊"と同等とする見方である。

ここでいう「法」とは、「教えの内容そのもの」、「悟りの内容そのもの」、「真理」、「真如」、「光明」、「無為」、「無相」、「無我(非我)」、「空性」など、どのように捉えてもらっても構わないが、要するに「法の現観」を「仏の顕現」と同等に看做すということである。換言すれば、「出世間」(ニルヴァーナ/解脱)を求める事と、「仏陀」を求める事とは同義であると言える。

『華厳経』における"法身"、「毘盧舎那如来」(ヴァイローチャナ)は、具体的形象を持たず、言語表現の適わぬものとしての"悟りの内容そのもの"を象徴した「如来」と言えるが、曼荼羅における「大日如来」(マハー・ヴァイローチャナ)は、その三昧形は「ストゥーパ」(五輪塔)であり、その種子は「ア字」であって、"法身"で在りながら、何処までも"包括的"かつ"統合的"な印象を受ける。


今回は長くなりそうなので、ここで一旦〆ようと思う。



location cI
  1. 2017/01/30(月) 18:55:13|
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倶舎論に見る古代仏教のCosmology / Topography

今回の内容はといえば、要は『倶舎論』・世間品を参照にした、"須弥山(スメール)世界"の平凡な解説である。いまさら感もあるにはあるが、言わば「大日如来」のエントリを書くにあったての布石のようなものなので、ここに記すことにした。

『倶舎論』はヴァスバンドゥが一部批判的な視点を交えながらも「説一切有部」のアビダルマ教説を纏めたものであるが、よく整理され纏まっており、それゆえ日本仏教では基礎教学を学ぶ上で欠かす事の出来ない論書として重要視されて来た。日本では最も身近に触れることの出来る部派アビダルマの註釈書であり、倶舎論を参照とした仏教書なども多くあって、比較的容易にその内容に触れることの出来る文献と言える。現在ではサンスクリット写本、蔵訳、漢訳を比較対照した和訳研究も進められ、その成果によって、より精密な情報を得られるようにもなった。
また『倶舎論』・世間品では、須弥山(スメール)世界、特にその地理的形状やスケールの詳細がそれなりに整理された形で記述されているので、図式化する際には重宝される。
よって手っ取り早く仏教の"須弥山世界の詳細"を知りたいならば、『倶舎論』をおいては語ることができない。しかし説一切有部とは別の部派所伝と思われる『立世阿毘曇論』、漢訳長阿含の『世記経』などにも"須弥山世界"をトポグラフィカルに描写する記述が見られるし、あるいは『有為無為決択』に引用される「世界の生成と破滅」(正量部帰属)なども、古代仏教のコスモロジーを語る上で無視する訳にはいかない。

という訳で、ここでは主として『倶舎論』を参照しつつも場合によっては他説を参照し、その場合は明記する。


世界の生成と破滅のプロセス

『倶舎論』で記述される世界の生成と破滅のプロセスの概要を、以下に略出する。

・器世間の形成
まず何もない虚空な空間に、"サットヴァ・カルマン"(sattva karman)※1を因としての微風が起こり、次第に巨大な円盤状の「風輪」(vāyu-maṇḍala)が形成される。次に風輪の上に雲が発生し雨が降り注ぎ、「水輪」(jala-maṇḍala)が形成される。また次に、「水輪」が煮沸されその上面に膜を形成する如くに、水輪の上部に「金輪(地輪)」(kāñcana-maṇḍala)が形成される。その地表面には"有情世間"の基盤となる「九山八海」が生起する。

・有情世間の形成
風輪・水輪・地輪の三輪と須弥山(Sumeru)を中心とした円盤状の地表世界、いわゆる「器世間」(bhājana-loka)が完成すると、次に"有情"(Sattva)が発生する。まず始めに神々が現れ、次いで人間、傍生(畜生)などが現れる。最後に地獄の住人が発生し、一世界の生成は完了する。
このような一世界の生成には20アンタラ・カルパ(antara-kalpa)の期間を要するという。(1アンタラ・カルパ=15,998,000年と仮定すれば約3億2000万年弱)

・破滅と再生
一世界が生成されるのと同じ時間ほど世界は持続し、やがて世界は緩やかな破滅の期間に入る。破滅は生成の順序とは真逆に地獄の住人から消滅が始まって、地上の生き物、次いで神々が消滅する。すべての有情と大地が壊滅し、世界が消滅する。すべての消滅に掛かる期間は、同じく20アンタラ・カルパとされる。
世界が消滅すると、何も生じない期間がやはり20アンタラ・カルパ続き、やがて再び"サットヴァ・カルマン"(sattva karman)によって最初の微風が起こり、世界の生成が繰り返される。

以上が『倶舎論』における世界の生成と破滅のプロセスの大まかな概要であるが、『有為無為決択』に引用されるテキスト(正量部帰属)では、世界の生成の順序と内容が若干異なる。

そのテキストでは
まず最初に(世界が生起するまさにその時に)「極光浄天」から梵天の宮殿が生じ、次いで「大梵天」が生まれ、順次「夜摩天」までの天宮と諸天が生ずる。その後「夜摩天」が、「はるか以前に消滅した須弥山を再び見たい」と望んで下方に降り、以前存在した世界(九山八海)の情景を思い起こすと、(夜摩天の身体から)最初の風が生じ、次に(夜摩天より上位の)"サットヴァ・カルマン"によって生じた雲から水が流れ落ち、その表面に膜が生じ、"九山八海"が生起する。

というのが粗方の流れである。


九山八海

『倶舎論』では器世間の形状やスケールについての詳細が簡潔にまとめられているので、単純なモデルなら記述を参照して製作することも可能である。
以下、『倶舎論』の世界モデルを図で示しながら簡単に触れてみよう。

図1.『倶舎論』の世界モデル
スメール世界1

図2.九山八海 断面図
スメール世界断面図

倶舎論の世界モデルでは、"有情世間"は上図で示したような「須弥山しゅみせん」(Sumeru)を軸とし、「鉄輪囲山」に囲まれた外縁のある円盤上に展開する。このような"地輪上に生起した地表世界"の総体を「九山八海」と言う。

次に「九山八海」の詳細を見ていくが、『倶舎論』では"神々(天部)の領域"と"人間の住む領域"とは明らかに区分けされて考えられているような印象を受ける。ここではそのような見方に従って、この二つの領域をベースにこの世界モデルを見ていくことにする。

神々の領域


・須弥山
「九山八海」(世界)の中心である「須弥山」は、海面下の部分も含めれば巨大な四角柱のような形状をしており、標高は海面から山頂までが80,000ヨージャナ(約576,000km)※2、海面から底までの部分が同じく80,000ヨージャナと見積もられる。

東西南北の四面はそれぞれ種類の異なった鉱物から構成され、

東面が「銀」(rūpya)、
西面が「水晶」(sphaṭika)、
南面が「瑠璃(ラピス・ラズリ)」(vaiḍūrya)、
北面が「金」(suvarṇa)

から成る。

また「須弥山」は、その中腹までの高度が海面から40,000ヨージャナとなり、中腹に至るまでに四つの傍出した(階段のような)層がある。この四層には「四天王衆」の諸天が住み、

第1層級に「器手天」(Karoṭa-pāṇi)、
第2層級に「持鬘天」(Mālā-dhara)、
第3層級に「恒憍こうきょう(Sadāmada)、

最上層の東西南北に「四天王」(Mahārājika)のそれぞれが住む。「四天王」の配置は胎蔵界マンダラのそれと同様である。

須弥山山頂は正四角形の平地で一辺の幅は80,000ヨージャナである。頂上の広場は「三十三天」(Trāyastriṃśa)の領域で、中央に「善見」(Sudarśana)という名の「インドラ」の都城があり、その四方に遊苑がある。また山頂の四隅(角)には高さ500ヨージャナ(3,600km)ほどの峰があり、「金剛手」(Vajra-pāṇi)が住む。山頂より上空は「空居天」の住む領域が続く。

図3.九山八海中心部 〔八山(須弥山+七山)と七海〕
八山七海平面図

中心の正方形が「須弥山(スメール)」(Sumeru)、その周りを七海と七山が取り囲む。ここではこの領域を便宜上"八山七海"と呼ぶことにする。この領域は「地居天」の住むエリアとなり、須弥山頂上は「三十三天」、須弥山中腹下部から最も外側の「ニミンダラ山」までが「四天王衆」の領域となる。

図4.八山七海断面図
八山七海断面図
ここでは「空居天」は欲界の範囲のみ〔「夜摩天」(Yāma)から「他化自在天」(Paranirmitavaśavartin)まで〕を示す。また「兜卒天」(Tuṣita)から「他化自在天」までの距離は省略して示している。

・七山
「須弥山」の周囲には"七つの山脈"が垣のように取り囲む。これらの山脈の呼称は、内側からそれぞれ

「持双山」(Yugandhara)
「持軸山」(Iṣādhara)
「檐木えんぼく山」(Khadiraka)
「善見山」(Sudarśana)
「馬耳めに山」(Aśvakarṇa)
「象耳ぞうに山」(Vinataka)
「ニミンダラ山」(Nimindhara)

となり、総じて"七山"と呼ばれる。
七山にもまた「四天王衆」の村落や都城があり、諸天が住むとされる。

・七海
「須弥山」から「ニミンダラ山」にかけての山々の間には七つの(堀のような形状の)海があり、これらをまとめて"七海"あるいは"内海"という。七海は「八功徳水」(aṣṭāṃgopeta)という特殊な水で満たされている。

・七海と七山の大きさ
「須弥山」から「持双山」に至るまでの内海の幅は80,000ヨージャナ(約576,000km)で、「持双山」の高さは海面から40,000ヨージャナ、「持双山」から「檐木山」に至るまでの距離が40,000ヨージャナ、「檐木山」の高さは海面から20,000ヨージャナというように、以下「ニミンダラ山」に至るまで"内海の幅"と"山頂の標高"は1/2ずつ減少していく。山の幅も同様である。各々の山の幅はその標高に等しいとされる。


以上に述べた"八山七海"は神々や薬叉が住まう"天部"の領域であって、我々現代人にとっては少々異質な領域に思われるかもしれない。しかし神々が住むとされる領域で、例外として我々が日常的に目にすることが出来るものがある。それは何かと言えば、

「太陽」と「月」がそれである。

「日」と「月」もまた、諸天が住まう天宮とされる。(日と月についての詳細は後で別に略出する)


人間の領域

「ニミンダラ山」の外側から最外周にて世界を取り囲む「鉄輪囲山」(Cakravāḍa)までは塩水で満たされた大海が広がり、その海の名を"外海"(bāhya-samudra)と言う。人間が住むのはその外海に浮かぶ陸地上になる。

・四洲
まず主要な陸が四つ、須弥山の四面(東西南北)に対する方角の先に、それぞれひとつずつ位置する。これらをまとめて「四洲」(Catvāro-dvīpa )といい、

東が「東勝身洲(プールヴァ・ヴィデーハ洲)」(Pūrva-videha)で陸地の形状は半月形、
西は「牛貨洲(ゴーダーニーヤ洲)」(Godānīya)で形は円形、
南が「贍部洲(ジャンブー洲)」(Jambu-dvīpa)で三角形、
北が「北俱盧洲(ウッタラ・クル洲)」(Uttara-kuru)で形は四角形とされる。

下の図は「四洲」の大きさを実際の比率より大幅に拡大して示した図になる。

図5.
四洲比率拡大図2

上の図では須弥山の一辺の幅に対して実際より約80倍ほど拡大して示している。実際には例えば「贍部洲」の一辺の長さが2,000ヨージャナ(yojana)というから、これは「須弥山」の一辺の幅と比べれば1/40の大きさに過ぎない。(とは言いつつも2,000ヨージャナをキロメートルに換算すれば14,000km強になるので、かなりの大陸である)

また四洲には(それぞれの洲に)眷属の中洲が二つあり、その中洲にも人々が住んでいるという。【世間品4-4】 しかし位置やスケールが不明瞭であるから、図では省略した。

・贍部洲(ジャンブー洲)
当然といえば当然だが、『倶舎論』を見る限りにおいての「贍部洲」の地理的描写は、インドの土地柄を多分に反映したものとなっている。例えば「贍部洲」の北方にあるとされる"雪山"(Himavat)はヒマラヤを連想するほかないし、四大河川の内の「ガンガー」(Gaṁgā)と「シンドゥ」(Sindhu)はインドにある河川の名称そのものである。ところが雪山を越えた先の描写は異界の様相も垣間見え、常人では容易に赴くことの出来ない土地として表現されている。

また「贍部洲」(Jambu)から「須弥山」を介して反対側にある「俱盧洲」(Uttara-kuru)は、『倶舎論』では詳しい説明はないが、長阿含・『世記経』などでは"楽園"のような土地として説かれる。

しかし菩薩が出生し、成道する場所としての"金剛座"があるのは「贍部洲」のみとされる。地獄も同様に、「贍部洲」(の地下)に存在する。


天体


・太陽と月
太陽と月は両方とも丁度「須弥山」の中腹の高さ、高度にして40,000ヨージャナ(約288,000km)上空を運行していると考えられていたようだ。太陽と月はそれぞれ異なる軌道を描いて「須弥山」の周囲を廻る。太陽の大きさは51ヨージャナ(約367.2km)、月の大きさは50ヨージャナ(360km)とあり、ほぼ同じ大きさ、同じ高度である。軌道の詳細は不明だが、太陽の軌道は夏は南寄りに、冬は北寄りに移動する。

また「南贍部洲」が昼間の時は「西牛貨洲」は日の出、「北俱盧洲」は夜、「東勝身洲」は日の入りになるという。月の満ち欠けは日と月との位置関係によって生ずる。『倶舎論』では『施設論』の説を挙げて「月が太陽に近づくと、照らされた面の反対側が影になるから欠けたように見えるのだ」と説明する。先にも述べたが、太陽(日)も月も天部の領域とされ、"四天王衆"が住む天宮となる。

・その他の天体
インド神話では夜空に輝く星々や星座はしばしば神々と関連付けられ、また同一視されるが、少なくとも『倶舎論』を見る限り、星(星座)は「九山八海」の枠外にあると考えられていたようだ。従って天部の位置付けや距離などについては言及がない。


三輪(九山八海の基盤)

以下の図は「九山八海」と「三輪」をまとめて示した図になる。

図6.『倶舎論』の三輪観
三輪モデル


『倶舎論』では三輪のスケールの詳細を、以下のように規定している。

「金輪」(kāñcana-maṇḍala)の厚みが320,000ヨージャナ(約230万4,000km)、直径が1,203,450ヨージャナ(約866万5,000km)、
「水輪」(jala-maṇḍala)の厚みが800,000ヨージャナ(約576万km)、直径が金輪と等しく1,203,450ヨージャナ(約866万5,000km)、
「風輪」(vāyu-maṇḍala)の厚みが1,600,000ヨージャナ(約1152万km)、そしてその直径がアサンキャ(asaṅkya)である。

「アサンキャ」(asaṅkya)とは無限を示す言葉であると同時に、数の単位としても解釈され得る。その場合は一説によると、実に10の59乗ヨージャナにもなるというから、いずれにせよ風輪の幅を正確な比率で示すことは出来ず、上の図は「風輪」のほんの僅かにも満たない部分を示しているに過ぎない。 

例えば「水輪」と「金輪」の直径を原子核のスケール(1fermi)まで縮小したとしても、「風輪」の大きさ(直径)は端から端まで10億光年の距離を持つ空間にすらまったくもって収まらないほど巨大なものである。

この様な途方も無く巨大な基盤を持つ世界が1,000の3乗世界、つまり10億世界あって、それらの総体は「三千大(千)世界」といわれる。それらのひとつひとつが80アンタラ・カルパ(12億8,000万年)の周期で生成と消滅を繰り返しているのだと言う。

以上が倶舎論にみる「器世間」の概略である。




『倶舎論』の記述から起想される九山八海の世界モデルでは、その単純な幾何学的形状、もしくはその地理的描写の規則正しい整然さゆえに、一見したところ自然の地形が織り成す複雑性は喚起されない。それはあたかも人工的な建造物のようでもあり、あるいはまた工業製品の部品のようでもある。しかしこれに類似する規則性が自然(Nature)に見出せないわけではなく、「七山」の形状は化合物の結晶が織り成す層のようでもあるし、「須弥山」と「七山」は何処となく植物の"雌しべ"と"雄しべ"の関係のように見えなくもない。

このような世界の捉え方がいつ頃からあったのかはわからない。が、ディテールの違いこそあれど、「九山八海」という大方の要素は(知りうる限りでは)部派仏教の間でも共通しているようだ。また"巨大な中心軸を持つ円盤状の世界"という世界観は古インドでは恐らく凡庸な世界の捉え方で、軸をどのように考えるか(何と呼ぶか)の違いこそあれど、仏教以外の宗派でもその細部を削ぎ落としてみれば、どれも似通ったイメージを共有しているように思われる。

今となっては神話的でもあり、幻視的でもあるこの世界モデルは、現代人が把握している実際の世界とはもはやリンクしてはいないし、また現行のパラダイムの中に於いては実用的に機能する事もほとんどない。
しかしながら『倶舎論』に見られるような、この超巨視的な視点から構想された風景(Landscape)は、我々現代人にも少なからず驚嘆の念を起こさせるものがある。特に「九山八海」の第一基盤である「風輪」の巨大さなどは、現代においてもその"途方のなさ"を実感させるには十分有効だろう。



※1 サットヴァ・カルマン(sattva karman)は有情(衆生)すべてに共通する業(行為)という意味において、"有情の共業"と訳される。

※2 ヨージャナ(yojana)は長さを表す単位で、漢訳では由旬と音写される。『倶舎論』では1ヨージャナ=8クローシャ(klośa)、1クローシャ=500弓(dhanus)、1弓=尋(vyāma)=4肘(hasta)と定義する。尋ひろを6尺(1.8m)とすれば、1ヨージャナはキロメーターに換算すると約7.2kmになる。


参考文献

・倶舎論の原典解明【世間品】 山口益 船橋一哉 法蔵館
・正量部の研究 並川孝儀 大蔵出版
・世親 三枝充悳 講談社学術文庫
・仏教思想2 存在の分析<アビダルマ> 櫻部建 上山春平 角川文庫
北倶盧洲考 小川 宏
  1. 2016/11/07(月) 01:02:08|
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>PRE

はじめに

ご訪問有難う御座います。

このBLOGは
基本的には、私が描いたマンダラの神仏をupしていくというのが主旨となっております。

簡単な解説も添えて記事にしておりますが、解説部分につきましては自分自身の整理の為に書いている部分もあり未だ不完全ですので、随時追加・変更する可能性があります。また私の個人的見解も含まれる場合も有りますのでご了承お願い致します。間違った部分が有りましたらご指摘頂けたらば幸いです。

なお、このBLOGは
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ちなみに非公開のコメントは表示上はカウントされないように設定していますが、ありがたく読まさせて頂いております。

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2010年の3月からAnalog drawing+Digital paintingで胎蔵曼荼羅を描き始めました。

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